仮設ブログ

①研究の意義・目的
「私の人生はどういうものなのか」「私の人生はこれからどうなっていくのか」そのよう
な問いかけは多くの先人が取り組んできた問題である。確かに私たちは今突然心臓発作で
死んでしまうかもしれないし、目の前にいる人間が突然消えてしまうかもしれない。科学に
よって多くの因果関係が明らかになったところで「なぜ私はこの世に生まれたのか」という
問いに客観的な答えを提出することは出来ない。しかしそれでも我々は明日も生きている
だろうし、突然宇宙は崩壊しないだろうと意識的であれ無意識的であれ「信じて」生きてい
くことが出来る。目の前の現実には何らかの法則性があって、自分の人生には何か意味があ
るのだと思える。
では、その未来予測不可能な世界に法則性を与え、自分の人生の意味を何となく掴ませて
くれるものは何か。その答えとして出されたものの一つが「narrative」である。P・リクー
ルが「時間と物語」の中で我々は不断に変化し秩序を持たない時間的世界を生きる中でそれ
らの出来事を物語によって秩序立てていると主張して以降、哲学の分野だけでなく心理学
社会学においても「narrative」の理論が数多く応用されている。
なかでも Macadams の「The stories we live by」( 1993)はエリクソンの発達段階的な人
間形成論を参考にアイデンティティ形成と物語との関係を発達段階的に論じている著作で
ある。彼は本書で近代西洋までの普遍的な自己や真理からの「脱―中心化」として個人には
個人のための「Personal myth」が存在し、人間の生や成長はこの「Personal myth」の観点
から説明できるというような主張を展開する。たしかに我々は生まれてすぐに物語を語れ
るわけではないし、アイデンティティも成長と共に問題になってくるしその内容も変わっ
てくるように思える。それをナラティヴ形成の発達的理論によって定義するのは納得でき
る箇所も多数存在する。
しかし、本書を読み、人生を有意味にするためにいざ「personal myth」を作ろうと思って
もなかなかうまくいかない。(実際に Macadams 自身も物語療法には懐疑的な態度を取って
いる。)このことに似た事例としてアルコール依存症の語りがある。アルコール依存症患者
は「自分は酒をやめるぞ!」という物語を何度も作ってはその多くが失敗に終わっていく。
それではこのような物語形成は不可能なのだろうか。
そのような自己と物語の関係に鋭い考察を加えたのが浅野智彦である。浅野はまずその
ような「なりたい自分」とか「変えたい自分」のような言説が「そもそも自分は存在する」
という前提に立っていると指摘する。そのような「私」とは「なりたいもの」とか「かえた
いもの」の対象として一致する必要がある。これを私の「中心化」という。(例えば宇宙飛
行士になりたい私と体力に自信がない私について述べ「宇宙飛行士になりたいけどなれな
い」というとき、当然両者の「私」が一致してなければ「いや、関係なでしょ」となってし
まう。)
しかし、中心化を行うためには中心化にふさわしくないエピソードは排除せねばならず
また、それらのエピソードを配列せねばならない。そのためには「物語」が必要なのである
が、その物語とは何かを浅野は三つの特徴によって定義する。
①視点の二重化=「語るもの」「語られる者(登場人物)」の二重化
②出来事の時間的構造化=納得いく結末にとって都合のいいものを選択・配列すること
③他者への志向=納得させるための「聞き手」を必要とすること
そして「自己物語」とは①語っている自己と語られている自己を生み出し②自分の経験の
中から結末に沿って体験や行為を選択・配列し③他者が納得するような「私」を生み出すも
のである。
しかし、「自己物語」は必ず「語りえないもの」を含むという。なぜなら自己物語は本来、
語られている自分が如何に語っている自分に等しいかということを他者に納得させるため
に行うのだが、物語の持つ「視点の二重化」のためにパラドクスが生じる。また、結末に沿
って出来事を羅列するには語られている自己よりも語っている自己が物語に時間軸におい
て先にしてしまうというパラドックスが生じている。(「私はこうなってこうなってこうな
りましたが今も元気です」という自己語りは語る前にすでに「私は元気だ」という自己が存
在しなければ成立しない。しかし、先ほどから述べているようにそのような中心化は物語の
持つ選択・配列機能がなければ成立しない)しかし、これは語り手の視点から生じるパラド
クスであって語りの方法さえうまくいけば他者がそのようなパラドックスにきづかないま
ま自己物語は成立する。しかし、そのような語りのテクニックによって我々の体験や行為の
一部は「語られないもの」になってしまう。そしてそのような他者の納得は一時的なもので
あるので、この「語られないもの」は残り続ける。この「自己とは自己物語によって生まれ
る」という概念と「自己物語は必ず語りえないものを含みうる」とテーゼが浅野の基本概念
である。
そして浅野は自己に関する問題は自己物語に関する問題だと捉え、問題解決には自己物
語を変容させればよいと考える。そのための方法として浅野は新しい物語を自己にインス
トールするのではなく、自己物語の「語れないもの」に注目する。すなわち、自己物語の中
に語れないものがあることを明らかにすることで現在の自己物語では自らの体験や行為の
中心が「私」であることが説明できなくなる。そこで新たに自己物語を作る必要が生まれ、
今までの問題を抱えた自己物語を変容しうるという主張である。
このような「自己物語」と「語れないもの」の関係を私は「ブリコラージュによって作ら
れる自己物語」という風に考えている。「ブリコラージュ」とはレヴィ・ストロースによっ
て注目された概念である。フランス語で「器用仕事」の意味であり、通常「エンジニアイン
グ」と並行して考えられる。端的に言えば「ブリコラージュ」はその場にある「もの」を利
用して今ある問題を解決する方法、「エンジニアイング」はある目的に対してあらかじめ解
決方法が定められていてそれに乗っ取って問題を解決していくという方法である。(レヴ
ィ・ストロース,1987,p22-23)
これを「自己物語」の作成方法として比較すると、以下のように考えられよう。
エンジニアイング的に自己物語を作るとは、ある「物語」を用意してその物語を生きられ
るように自分をコントロールしていくような方法であるのに対して、ブリコラージュ的に
物語を作るというのは自分の体験や行為の中から目的の物語に近くなるように作っていく。
そうして出来た自己は目的のものとは程遠くちぐはぐなものであるが、臨機応変に自己物
語を組み替えることが出来る。また、その組み換えは素材を入れ替えることではなく、その
素材はそのままにその組み換え方を変えるという形式を持つ(p26)がこれはまさに浅野の
言う、「物語はその内部に「語りえないもの」をもつ」ことと「「語りえないもの」を明らか
にすることで新たな自己物語を生み出すことが出来る」という自己物語の改変論に一致す
ると言えるだろう。このように、浅野の自己物語の形成・変化論はまさにブリコラージュ的
な物語形成であると言える。
また、ブリコラージュがエンジニアイングと対比させられる場合、前者は記号を用いるの
に対し後者は概念を用いるとレヴィ・ストロースは定義している。(p25-26)これはエンジ
ニアイングは特定の材料を特定の目的にしか使わないが、ブリコラージュではある材料の
使用目的は様々な要素を持つという対比である。このようなブリコラージュとエンジニア
イングの対比に注目した小田は、ブリコラージュを行える空間は顔の見える具体的なコミ
ュニケーションが可能な場であると述べた。なぜなら、ブリコラージュが成立するには「記
号」を用いなければならないが、レヴィ・ストロースは記号を「概念」と「心象」の中間に
あるものだとしたことを踏まえ、小田が具体的な経験である「心象」が「概念」として用い
られる(「記号」として用いられる)空間でないとブリコラージュは成立しないと考えたか
らである。そして小田はそのような空間は真正性社会というレヴィ・ストロースの定義した
いわゆる「顔」の見える具体的なコミュニケーションが成り立っている空間であると定義し
た。
このようなことを踏まえると浅野の自己物語の改変はどこでも誰にでも可能なものでは
なく、その人と具体的なコミュニケーションを行っている人々の空間でしか起こらないの
ではないか、そしてそのような場合「語れないもの」として存在している具体的な経験は言
説レベルのものだけでなく、身体的な「記号」としても存在しうるのではないかという浅野
の議論をさらに発展させるための手がかりになると考えている。
〈参考文献〉
C・レヴィ・ストロース「野生の思考」,1987,みすず書房
D・Macadams「The stories we live by」,1993
浅野智彦「自己への物語論的接近 家族療法から社会学へ」2001,勁草出版